※一部、撮影および掲載するのは不適切・不謹慎なのではと思われるかもしれない写真があるものの、
記録に残し、また皆さんにお伝えしたいという想いのもと、記事にさせていただく。
新潟県から、福島県へ突入。道の駅で、磐梯焼きというのを発見した。
そば粉のお好み焼きだそうで、から揚げかコロッケ(だったと思う)かを選べる。
いずれも美味しいに違いない。どちらでも良いので、聞いてみることに。
お姉さんが個人的に好きなのはどっちですか。
「うーん… どちらかと言うと、から揚げ、かな?」
よし癒やされた。できたてはアツアツで、ジューシーで旨かった。
あと、納豆パンというのがあった。納豆は好きだ。
中身は、思いっきり納豆であった。腸に良さそうだ。
東へ向かい、猪苗代湖を通過。日本で4位の面積なのか。
1位は断トツで琵琶湖としても、2位3位が分からない。支笏湖あたりかなと思って調べてみたら、全然違った。
あかんね。覚えておこう。
さらに東へ走り、これが見えてきたところで、いよいよここへ入ってきたかと感じる。
今回の旅は基本的にノープランだが、絶対に行くと決めていたひとつは、東日本大震災の被災地。
あの日から6年間、僕は何も出来なかったし、してこなかった。
せめて、いま訪れて自分の目で見て、色々と感じて伝えられれば。毛ほどでも何かになればと。
被災していない僕みたいなもんがノコノコ来て良いものなのかとも思ったが、
駄目ではないようだ。
川俣町。
道の駅で、軍鶏メンチカツというのをいただく。揚げたてサクサクで、超ジューシー。
細かな軟骨がコリコリとして、食感も良い。これは旨かった。
飯舘村に入ると、大量の黒い袋が並ぶ、異様な光景が目に入ってきた。
本来は穏やかなはずの田舎の風景が、およそ似つかわしくないモノで侵略されてしまっている。
なんだこれは。どうしてこんなことになっているんだ。
そしてこんな場所は、この先の何十か所でも目にすることとなるのである。
海の方へ近づくにつれ、嫌な汗をかいてきた。
たぶん、見たくないけど視なくてはならない光景がある。
南相馬市。
海沿いには、何も無かった。ずっと前からこうだったんじゃないのかと錯覚しそうになるが、
かつて一帯には住宅などが建ち並び、人々が生活を営んでいたのである。
左が海側。
たくさんの重機が動き、工事車両が引っ切り無しに走り回っている。
トラックが何を運んでいるのかと思い見てみると、多くは土を、ひたすらに搬出・搬入していた。
盛り土の作業が、あちこちで行われている。
川や堤防を直す工事も、何ヶ所も続いていた。
どこまでもどこまでも、何かしらの工事作業中だ。
所々に、津波浸水区間を示す標識が。
こんなところまで津波が迫ってきたのかと、恐ろしさを感じる。
浪江町。
事前に調べたところ、このあたりから帰還困難区域となっている。立ち入れないのだろうが、行けるところまで行こう。
と思い国道6号線を南下すると、どうやら自動車は走行できるらしい。
ただし二輪車や歩行者は通行できないようで、区域の入口では警備員さんたちが監視をしていたし、
全ての脇道に、入っていけないようバリケードが敷かれていた。
双葉町・大熊町と入っていく。
一見すると普通の街・ただの国道沿いなのであるが、住民は誰も歩いていないし、信号は全て黄信号の点滅。
駐停車禁止の標識がずっと続いており、パトカーが何台も警らをしていた。
左右の住宅口は、例外なく塞がれている。言葉を失い、ただただ、異様だとしか思えなかった。
建物をはじめ多くの建造物が、崩れたまま放置されている。
営業中の看板を出したままになっているお店。
富岡町に、
楢葉町。
震災が無ければ、これらの地名は恐らく、知ることも無かっただろう。
全国民の記憶に焼き付けられることとなり、また絶対に忘れてはならない名前だ。
陥没し、未だ運行できていない線路。
写真では見づらいが、随所に放射線量の表示がある。
虚無感、やるせなさ、行き場の無い憤り、どうしようもない焦燥、悲しさ、無力感。様々な想いが湧きあがってきた。
見たものももっと上手く伝えられれば良いのだが、僕の稚拙な国語力では、何ひとつ適切に表現できない。
写真も憚られる気がしたので撮っていないが、
ナンバーが付いたまま、中に物が残されたまま、持ち主を失った車が何台もそのままになっているのが、つらかった。
けっきょく区域も過ぎ、茨城県も近いあたりまで行ってまた引き返す。
長い運転もそうだが、何だか心も疲れてしまった。
被災地から少し離れた道の駅で休むことにする。
警笛鳴らせ、の珍しい標識があるくらいの、なかなかの山道を越えていく。
[大体の走行ルート] ※大雑把に示しているため、実際の運転とは必ずしも一致しない
【走行距離:418km/Total:1,976km】
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